2018.08.21 15:17
環太平洋・間アジア視点から見直す日本ポピュラー音楽史
2018/07/28 輪島裕介
Playlist:
https://www.youtube.com/playlist?list=PLofNvvSGnd26ydb13o6FYr3QzBzWzo9Es
ディック・ミネ「ダイナ」:日本語母語話者による英語風歌唱法
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ディック・ミネはもともとダンスホールのバンドのドラマーで、ドラムが入らず英語詞ではないタンゴやハワイアンをでたらめな歌詞で歌っていた。「英語風発音の日本語」はその延長上の、バンドマン的な遊びだったのではないか。ちなみにこの録音のスチールギターもミネ本人。この歌い方にGO を出したのは、当時テイチクの重役待遇でプロデューサー的な業務も行っていた古賀政男といわれる。
2 台湾語混血歌謡から台湾語ロックへ
1950年代末〜60年代台湾における、同時代の日本の流行歌の台湾語カヴァー(混血歌)の隆盛。その背景としての国民党による台湾語抑圧。そのシンボルとしての「黄昏的故郷」。
一方で、戦後日本歌謡史における「民謡調流行歌」と三橋美智也の重要性を再認識し、「演歌」言説によって切断された歌謡史の連続性を再発見する。
・越境する郷愁:「黄昏的故郷」をめぐって
橋幸夫「恋をするなら/墓仔埔也敢去」三態
(補足・レクチャーでは十分言えなかったこと。三橋美智也や橋幸夫は当時においてはきわめて重要だったけれど、現在では「演歌」の文脈でも「J ポップ」の文脈でも顧みられにくい存在である。むしろそれゆえに、当時の流行歌の多様性をわれわれが新たに発見し再解釈するための手がかりにもなるのではないか。それは60 年代後半に大きな断絶を認めるような日本大衆音楽史観に別な視点を付け加えることにもつながるだろう。そのために、彼らの楽曲が台湾でカヴァーされ続けているありかたがとても示唆に富んでいるように思われる)
3 ダンスリズムの伝播と土着化
戦前から現在まで、ダンスと結びついたポップ音楽(音楽と結びついたダンス)は、身体という媒介を通じて越境し、土着化してきた。先の「恋をするなら」も「サーフィン」なる「ニューリズム」の一環として企画されたものだった。ダンス音楽の伝播と土着化は、活字と音盤による観念的な「洋楽受容」とは異なって、猥雑で官能的な(それゆえに文化的境界を越えやすい?)感受性に依拠していたのではないか。
・環太平洋的音楽家としての服部良一
白系ロシア人(ウクライナ系)のエマニュエル・メッテルに作曲と管弦楽法を習い、大阪のダンスホールで演奏し、松竹の道頓堀ジャズ・レヴューを東京に持ち込み、戦時中を上海で過ごし、戦後はブギで大当たりし、香港映画音楽の父となる。
(当日紹介できなかったネタ:
①戦前上海の懐メロのチャチャ編曲にあわせてご婦人たちがラインダンス。現在OBC といえばこれがイメージされるらしい。
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②台湾原住民アミ族のチャチャ。原曲はあの曲(実は和製ボサだった!)
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③近年の台湾映画主題歌でのチャチャ(2015 )。北京出身の富豪青年と台湾南部出身の令嬢の結婚に際しての両家の文化的風習の衝突を主題にした正月の娯楽映画で、派手で下世話な「台湾南部の宴」の象徴として用いられている
VIDEO 映画はこちらから。
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Namewee黃明志「泰國恰恰Thai Cha Cha 」(2017 ):”You’re not Thai People. You don’t know Thai Cha Cha”. Namewee はマレーシアの華人で台湾に留学していた音楽家兼映像作家。アジア各国のエスニック・ステレオタイプを極端に増幅して露悪的な笑いをとるスタイルが特徴。つまり「いかにもタイ的」な意匠としてタイ・チャチャが用いられている。
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結:日本ポップの批評的(かつノスタルジー的)再解釈