2018.11.22 11:25
Text by Segawa Yuta 文:世川 祐多
おパリの庶民キッチン
6年間パリに住んで、3回家が変わったから、パリの典型的なアパルトマンのキッチンを経験した僕。
金をかけてリフォームしてIHにしてある家はもちろんあるが、パリのキッチンは、もちろん部屋が狭いからキッチンも狭く、ガスはあまり引かれていないから、電気コンロが主流である。
ヨーロッパの謎で、いつまでたっても旧式のものが、世代交代しないで存在する謎がある。
電気コンロ、IHに駆逐されていてもいいと思うのだが…
また、パリの人々は日本人のように、都市ガスだのにこだわって、ガスを常備したいするという気持ちがないと思われる。というより、パリの街は現代社会に追いついていないから、設備を増やすことは厄介を増やすだけである。
たとえば、人口増加に耐えられない、小さな6両編成のメトロ。またメトロには、ハンディキャップのある人や子連れ年寄りには酷なことに、新設の路線を除きエレベーターもエスカレーターもない。しかもあってもしょっちゅう止まっている。
昔々の建物に、細い配水管と電気をようやく設置しているから、全てにおいて使い勝手が悪く、しょっちゅう問題を起こす水回りと電気。
例えば、僕はウォシュレット欲しいなと思うが、トイレにコンセントなど設置されていないから、そもそもつけられない。そういう勝手の悪さである。
なので、ガスがあるということは、電気代+ガス代になるわけだし、設備管理も増えるわけで。ガスも時々あるけれど、パリには電気が精一杯なのである。
さて、これが、その電気コンロPlaque électrique。
これが実に料理がしにくい。
熱されてしまうと、当分コンロが冷めない。そして、マックスの温度も火のようには上がらないから、炒め物とかがあんまり気持ちよく決まらない。チャーハンとかが水気が飛び切らなくてうまくできない。
だから、苦痛というわけではないが、料理をする気合が全く、入らない。
部屋が狭いと炒め物の匂いとかが部屋に充満するし…
ガスとキッチンから始まる料理生活
やはり料理をするには、それなりの広さの家。気分が高揚するキッチンが必要とは、僕の持論である。
僕はフォンテーヌブローに移住したばかりである。
フォンテーヌブローはパリの東南70キロにある世界遺産の地方都市で、緑豊かで、ロッククライミングの聖地でもあり、グーグルマップを見るだけでもこの街が特殊だとお分かりいただける。
この街は、こざっぱりしているから、どこかのタイミングで都市ガスの整備をしたと見え、都市ガス完備の我が家は、相当満足できるキッチンである。
やっぱりガスだ。
火加減の調整はうまく行き、煮込み・炒め・茹で・何でも思い通りにできる。
キッチンが満足できるものだと、様々のものにこだわっていきたくなる。
コーヒーの豆挽き、直火式のエスプレッソマシン、良さげな塩などなど、調理器具や調味料にも気合が入り、さながら貧乏独身貴族みたいなこだわりが出てくる。
こうなると人によるであろうが、料理がしたくなってくる。
形から入る男の僕のこと、なおさらである。中身は伴わなくてもよい。
わりに、家事は好きな方なので、それなりにこの家のキッチンや炊事洗濯を気晴らしを兼ねて満喫して、いつでも隠居し、主夫になる準備だけはしておく。
商店街とマルシェが生きている街
相当気に入って暮らしている街、フォンテーヌブローであるが、ここは火金日に立つマルシェが有名であり、野菜・肉・魚・チーズ・乾物・ワイン何でも美味いものが手に入る。
マルシェのある八百屋の親父は、車寅次郎ばりの口上で、お買い得の掛け声をあげるので、どうやらフランスにも紋切り型の口上があるらしい。
マルシェの野菜は新鮮そのもので、色からしていい。
魚は日本に劣るが、肉は赤々としていて、絶品。
ただし、どうしても日本に生まれ育った僕としては、フランスの食事は重いので、軽い料理の方がいい。
なんだかんだ、自然と地場のもので、和風のようなものを試行錯誤していくことになる。
例えば、日本ではなかなかないが、贅沢にも、フランスは鴨に潤沢である。
鴨を買ってきて、塩と胡椒で、焼いて、食べる。付け合わせは何かの野菜。
鴨で、ウイキョウだのアンディーブだのの野菜をブッ込んで鍋にしても美味い。
こういう、野郎の料理でも、十二分に料理は日々の気晴らしになる。
本当は日本酒党だから、そういきたいが、そこは赤ワインで辛抱。
街の中央にある、商店街には、気に入った八百屋・肉屋・魚屋・ワイン屋・シャンパン屋ができたから、そこに馴染みになり、ちょこちょこ美味そうなものを買っておく。
料理には気持ちの高揚する買い物も重要な要素である。
フォンテーヌブローと、日本の市場やデパ地下や、谷中銀座的商店街は、料理系で日々の庶民生活をワクワクさせてくれるお買い物空間であることは間違いない。
快楽としての料理
ルーティーンは、僕が最も苦手とすることの一つである。
何かの刺激や変化がないとどうもつまらない。
酒と女は修行ばかりでつらい男の人生を慰める絶対不可欠のこの上なく大きな要素。
そして、料理人ではなくとも、日々の生活で料理をするということは、女ほどは快楽をもたらしてはくれないが、男のプチ快楽にはなりうる。
女の人が、料理が苦痛というなら、それは、家事の一環として、何か家族に食べさせなきゃということで、レシピを頭の中でひねり出しながら、何とか料理をつくらなくてはいけないというルーティーンと化すから、苦痛なのかもしれない。
自分に何かを強いる時、それは苦痛でしかない。
僕は運転が好きだからいいが、運転嫌いの人が相当いて、必要に迫られて、毎日のように運転せざるを得ない人たちは、結構苦痛らしい。
主婦・主夫でも、料理したい。料理しよう。という気合からの行動ではなく、料理しなきゃになった時点で、もう終わっている。
そういう時は、ルーティーンから抜け出すトライはした方がいいかもしれない。
一度、とある会社で、そこのキッチンを使って、家庭に来てレストランをしてくださる、すごい料理人の方の料理を堪能したことがある。家庭をレストランにするというひねった趣で、めちゃくちゃ面白いし、私的空間で料理人を呼んで料理を食べれるなんて素敵だ。
こんな風に職人さんを家に呼んじゃう。とか、母親や妻としてのルーティーン料理をサボタージュして、旦那や子供を数日間奴隷のように酷使して家事をさせるとか、なにかゲーム要素を取り入れてもいいかもしれない。
さて、私は料理人ではなく、普通の男なのでルーティーンとしての料理ではなく、適当に料理の道楽を極めてみたい。
男なら、タモさんぐらいの道楽者にはなってみたいものだ。