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「ハーフ・帰国子女・海外ロング在留邦人」

2019.03.06 16:34

文:世川祐多

1.イントロダクション

前回の「とりま。」のコンドウ氏の文

「アメリカやカナダのような移民の国(先住民からすると迷惑な話ですが)では「正統って何さ」というのは深刻な問題なわけで。特定の宗教、人種、文化が“正統”であることを主張しない街作りって可能なのかなぁと妄想している」

この文面は、ここフランスにいても痛切に感じるテーマである。

僕は今、ブルジョワの街として名高い白人の街、パリ東南70キロの、フォンテーヌブローに住んでいる。

ブルジョワは陽のあたる時間に活動し、普通夜は出歩かない。

この街に多い、今時フランス全体では極めて珍しい敬虔なカトリックともなれば、尚のことである。

しかし、夜にこの小さな街で飲み歩くとして、メインの客はこの街の人間ではなく、近郊の町や村の人間であり、しかしそれでも、メインは白人ばかりである。

街一軒の週末深夜営業をするクラブにいったら、そこには白人しかいなかった。

僕はこの街に住むにあたり、「確かに、フランスは白人国家なんだよな。ヨーロッパだもんね。」

と再確認するのである。

パリでは、オペラを観に行って9割5分の客が白人なのを観て、「おー、白人ばっか。」と感嘆したぐらい、メトロに乗っても、どこを歩いても白人しかいないなどという空間はない。

何か特別な上流のパーティーとかに行けば別であろうが、そういう私的なものや限定的な空間を除けば、人種のるつぼである。

さらには、黒人街や、アラブ人街、中華街などにいけば、その人種ばかりになるから、「ここフランス?」という感覚に襲われることさえある。

僕はパリでは日本人である意識はあったが、自分が外人であることは今ほどは意識しなかった。しかし、移民のほぼいない白人街に住んで、自分が外人あることをより感じながら生きる今日この頃である。

そこで今回は、正統だとされる国民や民族、そして、人間の主張したがる正統性と、そこからずれて生きることを宿命付けられた人々について考察したい。

2.ハーフ

僕はフランスの日本学の世界に身を置き、そこでたまたま本年度は教鞭を執っている。そこでは、研究者にも生徒にも日仏ハーフは多い。

それはある意味当然のことで、自分のアイデンティティの半分を形作る大和民族の血や日本という半分の祖国に対して興味を抱き、そこへコミットしようするのは当たり前のことであると思う。

ここで、まず言っておきたいのが、「ハーフ」は別に差別用語ではないということである。日本は最近何でもかんでも、言葉の吟味以前に、「ハーフじゃなくてミックスって言わなきゃいけない」「かたわと言っちゃいけない」「障害者じゃなくて障碍者と書かなくてはならない」などと言い、奥底にある問題を直視せず、言葉遊びや言葉の強制的チョイスで問題から目をそらし、差別を解消したふりをするからよくない。大喜利をやっているのではないのだ。

生徒たちは、自分のことを「ハーフです」と普通に言うし、周りも別に嫌がらせではなく「ハーフ」と言う。フランスーフィリピンハーフの子も「私はハーフ」と言っていた。これは、彼らが半分半分のオリジンを持ち、それが姿からも明らかなことを、うまく言い得ているジャパニーズイングリッシュと捉えられているようである。

つまりハーフというのは上手く彼らを言い得ているのだ。

フランスでも、白人ー黒人・白人ーアラブ人・白人ーアジア人、など明らかに人種を超えて、半分半分に混じっていることが明白な人々について「Métis(e) メティス」と言う。

これは、フランスーイギリスの混血など、白人内で混血がわかりにくいような人には使わない言葉でもある。

移民の中では、当たり前だが、宗教や文化、あるいは差別・逆差別のために、その人種や民族の共同体の中で子孫を再生産しようとすることが多いから、アフリカ系フランス人・中華系フランス人・アラブ系フランス人など、人種を混じらせていない移民たちは、「俺たちゃ黒人だ!」と主張するように、ある意味純血の正統性を主張したり、混じり合うことを拒否したり、逆に威張ったりすることがある。

ハーフというのは、こういう一種血統的正統性をこじつけられる純血的移民ではなく、混じり合っているがゆえに、フランスにおいても目立つ存在である。

ちなみに、フランスにおいて、白人ーアジア人の組み合わせは、「Eurasien ユーラジアン」と言い、美女イケメン確率が高いとされ、それを期待されるが、事実美しい男女が多いのはそうであろう。

この期待からまた、ずれると可哀想だ。

生徒と深く関わって行けば、このメティス・あるいはハーフの人々は、父母それぞれの人種や血統の背景を背負って、アイデンティティに向き合っているということを、何かの際にアピールしてくることがある。そして、周りからも当然「あの子はハーフ」として見られているから、そういう自我も強い。

もちろん、移民はハーフとは違うアイデンティティの悩みを持つから、移民の子からのアピールもある。

こういう時の世川大先生のレスポンスは120%

「世川祐多は世川祐多でしかないように、君は君でしかないから、それで仕方ないし、それでしかないから、自信を持って行け!君にしかできないことをやれ!」というものである。

それしか言えないもの。

色々なフランス在住日仏ハーフの話だと、こちらでも、とりわけ学校で「君はフランス人じゃない」というような言葉をかけられた経験があるようである。子供というのはある意味残酷で、他意なくそういうことを言うものである。

そして、日本にいても、同列の純血日本人としては決してみられないから、アイデンティティを強固に据え置く場所を得られず、「どっちつかず」になってしまう苦悩を抱える人もいる。

あるいは、自尊や自己愛というものを得られたとしても、日本にいるときはフランス人としての自分に誇りを抱き、フランスにいるときは日本人としての自分に誇りを抱くという、オセロのようなアイデンティティを持つ人もいる。

こうしてハーフの人と関わりながら、今まで自分が日本で見てきたハーフはどうだったかなと思い返せば、小学校の時にいたドイツハーフの子は名前もヨーロッパ名であったし、喧嘩になったら、「ドイツ人」とか「ドイツ帰れ」とか言われていたのを見たから、子供心なりに、僕もみんなも彼を自分たちと同じ「日本人」としては見ていなかったことは事実である。

あるいは、大学時代の塾講師アルバイトでの忘れ得ぬ生徒は、父上がナイジェリアの黒人であったが、やはり学校で「黒人!」などと平気で言われたり、「アフリカ帰れ」などと言われることもあり、一度学校で喧嘩をした日に彼が大号泣したのを覚えている。

彼は、本当は礼儀正しくてにこやかで活発だが、他方、こういうアイデンティティのやるせなさからなのか、暴力的というか、問題児であることも、明白であった。

しかし、ハーフであるという事実あるいは血筋の問題は、どれほど拒絶しようとも、決して変えることのできないものだから、「君は君でしかないんだから、君にしかできないことを。」と言うよりなかった。

当時は、市川海老蔵暴行事件などで名を馳せた関東連合というギャングに、伊藤リオンという黒人日本人のハーフがいて、これが結構有名であった。僕は彼を引き合いに出し、こんなことをすれば一層黒人や日本と黒人ハーフへの差別は苛烈になるし、君の黒人の先祖に対して恥ずかしくないのかと言ったら、恥ずかしいですと言って更に泣いていた。

彼を見ていて興味深かったのは、将来の夢はナイジェリアで暮らし、絶対黒人の嫁をもらうことで、ナイジェリアは彼の頭と心の中で、完全無欠のユートピアとして描かれていることであった。

しかし、彼は一度もナイジェリアに足を踏み入れたことはなく、ご両親も、そちらへ移住する気もなければ、ナイジェリアの現実は厳しいようで、息子にも日本で生活していってほしいとのご希望であった。

その見果てぬ父方の祖国へ対して、彼の中での憧憬は募る一方であった。

多かれ少なかれ、ハーフというのは、どちらの祖国にいようとも、アイデンティティに悩むことはあるようだ。

それは、日本では大和民族の日本人が正統であると、自然にみんなが無意識に思っている日本人像があるし、白人は白人同士の混血に慣れているとはいえ、フランスでも白人で先祖代々フランス本土に住んできた人間が正統なフランス人、という感覚があるからに他ならない。

ハーフというのはどうしても、この正統性からは、どちらの祖国にあっても排除される。

このどっちつかずのアイデンティティのことを、ベルギーと日本のハーフとして直視し、ハーフのアイデンティティを見つめる運動をしている写真家宮崎哲朗氏がおられる。

興味深いので、ぜひこの動画と合わせて見ていただきたい。

また、ハーフを直視した映画もあるから、こういう彼らの悩みから生まれた試みもあるようだ。


3.帰国子女

帰国子女というのも、日本では変わった存在である。

親の都合か何かで、自我を形成する子供時代に外国で育つということは、自然と国際感覚が身につくし、あるいは、日本で育てば自然と身につくような、日本人の独特の間合いや言い回しが身につけられないかもしれないという危険性を兼ね備えている。

「今日遊び行こう!」

「ごめん、ちょっと、今日は家族で出かけるんだよね…ほんとごめんね~!」

というのを、日本人らしい正統な日本語の受け答えとすれば、

それを知らない帰国子女が、

「だめ、今日はママと買い物!」

などと答えれば、なんだこのつっけんどんな言い回し。〇〇ちゃんって変わった変な子~。性格キツイし。なんかメイク違うし。

などと、その帰国子女が、純粋の定義はさておき、純粋な大和民族であったとしても、変な日本人としての扱いになってしまう。

とりわけ、中学校の三年間を外国で暮らしましたという帰国子女よりも、生まれてから中学までを外国で、といった筋金入りの帰国子女の方が、日本純粋培養の正統日本人とはズレた所作言動をする。

微妙に日本語の言い回しがおかしかったり、日本語がなぜか変に訛っていたり、何か違うのである。

おそらく、日本に本格的に帰国した時に、こういう帰国子女は、日本の文化に戸惑うこともあるだろうし、その中で自分を見出していくのに苦労すると思う。

彼らは血統は正統だとしても、発想や所作言動のために、正統な日本人像からはかけ離れるという、独特な存在であることは間違いない。

4.海外ロング在留邦人

まずは、この一人である僕のこと。

僕は日本がこの上なく好きで、日本人としての自分を誇っているが、現代の日本社会には馴染めないタイプの人間であることは間違いない。

現代日本社会の嫌いなところの一部。

若いから大した人生経験もなく、右も左もわからないような、大学を出たての新卒を礼賛する現代日本文化。その中に透けて見える、個性的な人間よりも会社の色に染めやすく、上を疑わない精神性を求める性根。

サラリーマン・働きすぎ・過労死、これも違う。

いつまでたっても、権力が手を打たないから、とんでもないラッシュアワーは一向に改善されず、毎日痴漢に間違われないかヒヤヒヤしながら、臭い人体のおしくらまんじゅうの中で出社帰宅。

無理無理無理。

こんなことを何十年も繰り返すために僕は生まれてきたのではない。

もっと人間的、そして社会のために少しはなるように暮らしたい。

そういう思いが根底にある。

また、僕は伝統的な家に生まれたから、自我というのが一般的な現代日本人とは全く別のところにある。墓参りをしたり田舎へ帰省したりする点で、日本人はみんな伝統的な家に生まれているのだが、これを常に意識するかしないかが伝統的かそうでないかの違いとする。

色々な「伝統的」な家庭に生まれた人を見ていても、自分を考えても思うが、こういう人間は、常に先祖との関係に子孫としての自分を見出したり、家のことや本来の身分について意識しているし、価値観や行動理念がそこから発するから、現代の日本社会には浮きがちであることは間違いない。

例えば、我々は、大義名分や然るべき人のために生き、そこに仕え、そのためになら命を懸けられても、どうでもよい会社ごときやつまらない上司のために命を懸けて働いたり、そのために命を落としたり疲弊したりするのは御免こうむる。

大風呂敷であっても常に天下国家のことは考える。

こういう類の価値観を持つ人間たちである。

僕のライフワークは、現代社会で浮いても、別に無理にそこへコミットはせず、浮き出たパワーをして、少しは日本をマシにするために何かできないかと模索しながら、日本が近代化する以前の実はファンキーな伝統日本の歴史と、日本と西洋の国際比較をしつつ、こうして発信したりしてもがくことであろう。

源氏物語に見て取れるような平安も江戸も、日本人はもっと自由で闊達でファンキーだったと、誰もが知ってはいるが、近代化のなれの果てに、そのエッセンスを現代にフィットする形で呼び覚ませていないだけの話である。これを何とかしたい。

こういう風に、現代日本からのはぐれ者みたいなのが、海外ロング在留邦人にはたくさんいる。

僕のように、何か意図を持って、日本人としての自我を強く持ちながらこちらにいる伝統主義者はあまりいないと見受けるが、日本社会が生きづらいということや、正統日本人だが日本に馴染めなかった人、日本が嫌いという人もたくさんいる。

しかし、現代日本というのはフランス以上に世の移ろいのスピードが早い。この点に関しては、さぞ疲れる世界であろう。

僕がこちらに来たのは2012年であったが、その翌年帰国してみて、テレビがどこをつけてもマツコデラックスで溢れていたのには驚いた。

僕は「5時に夢中」という東京MXテレビの番組が有名になる前から、時折ジムなどで好きで見ていたから、毒舌な面白い太ったオカマのマツコが気になってはいたが、こんなにまでスターになっているとは知らなかった。

今もそう。ヤフーニュースや産経ニュースぐらいはチェックして日本を気にしてはいるが、何せ現場にいないから、日本の空気感や、テレビではどんな芸能人が出てきては消えたのか、全くわからない。

例えば、日韓関係は現在悪化しているという。昔であればこのようなことは、「まあまあまあまあ」という日本人お馴染みのことなかれ主義でちゃんちゃんにするのが主流であったが、フランスからネットで気にして情報を見ると、国交断絶を主張している人たちも垣間見える。

日本人は沸点が高い一方、激怒したらとんでもない怒らせたら一番怖い類の民族であろうから、朝鮮は数十年かけて日本人の沸点まで、沸かしすぎたのかも知れない。

しかし、僕は日本にいないから、普通の日本人たちがどのレベルにおいて、朝鮮を嫌い、あるいは、激怒しているのかうんざりしているのか、その雰囲気が感覚的にわからないのである。

これは一つの例えとしても、そういう些細なことも、海外ロング在留邦人が、私のように日本を愛していようとも、現代日本から一層乖離していくという事実なのである。

まあ、そもそも僕は現代社会とは乖離しているから、世の潮流がどうであれ、それに意見が流されたりすることはないので、いいけれど。

嗚呼、

毎日風呂釜に入りたい。

欧米では眺ること叶い難い、日本の美人な女を見て七転び八起きに口説きたや。

(個人的な考えだが、日本人は20代前半までは、多くが服装から何から幼くて、化粧においても自分の美を生かすことを知らないが、ある程度落ちつく年齢からは極めて美しい。西洋の真逆。)

毎日美味しい純米酒が飲みたい。

刺身・天ぷら・生そば・寿司・だし巻き卵が食いたい。

人はよく、僕に対して、フランスに長くいらして素敵だのすごいですねなどと言ってくれるが、こっちからしたら一種の苦行でもある。食いたいものも食えないのである。

もちろん、外国に長く住んで日本を眺ることで、普通ではできない経験をし、そこから種々の思考が生まれるインスパイアは、何ものにも代えがたい。

海外ロング在留邦人は、目的や理由や心の趣は違っても、日本人なのに外国にいて、現代日本社会とは距離を置き、こういう種々の諦めと日本への欲望とジレンマを抱えながら、外人として異国にいることが多い。

さあ、僕は日本のために何ができるか?

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