ハグを知った身体はもう元には戻れない

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

空港でスーツケースを預ける時の自分と、目的地でスーツケースをピックアップする時の自分は、違う自分。そんな感覚が私にはあります。自分が生まれ育った国を離れて生活していると、どうしても違う言語、違うルール、を身につける必要があります。日本とアメリカの場合、似ている側面もあれば、違うところはとことん違う。どちらの国の常識も脳みそから指先まで、マッスルメモリーのように染み込んでいるけれど、同時に使うことが無いので自分の中に問題無く共存しているわけです。

ニューヨークJFK空港では英語でカウンターの職員と会話をし、スーツケースを渡し、飛行機の中でグラグラ揺られ、たまに日本語が話せるキャビン・アテンダントと会話をしながら少しずつ身体の中の「日本常識マッスルメモリー」がむくむくと力を取り戻してくる。日本に到着してスーツケースを取り上げる時にはもう、完全に日本ルールで街を闊歩できる自分を取り戻します。

常識マッスルメモリー切り替え失敗

1年前に、実に7年ぶりに日本に一時帰国をした時はこの「常識マッスルメモリー」の切り替えを上手くできずに、まるで外国人観光客のようにズレた行動を連発してしまいました。他人でも目が合うとニコっと微笑を作る。レストランやスーパーの店員に挨拶をする。レジの横のお金を入れるトレーを無視して、店員に現金を押し付け続ける。小さな歩道で車が通っていない時に身体が信号無視をしたくてウズウズする(ニューヨークでは警察官も歩道の信号無視をします)。リュックのチャックが空いている人がいると呼び止めて教えてしまう。電車の駆け込み乗車はもちろん、眼の前で閉じそうになる電車のドアを手で抑えたくなる衝動に襲われる。などです。挙げればキリがありません。

中でも抵抗するのが難しい「アメリカ常識マッスルメモリー」がハグや握手です。日本に帰って高校や大学の友人と久しぶりに会って「おぉー!」と興奮するとつい考える前に身体が両手を広げてハグをしようと自動運転を開始するわけです。「違う違う、この人とはハグはしないんだった」と脳みそが身体を制止する必要があります。と、こんなことを書くと「アメリカかぶれがイキがってるな」と言われそうですが、実はこの現象、ただ何かにかぶれる/かぶれないということでなく、文化や言語が私達の思考や自由意志(大きく出た!)に与える影響に関して非常に大きな示唆を持っている…と私は思うんです。

「もうアメリカ人になっちゃったんじゃない」

アメリカに10年住んでます、と言うとよく頂く反応は「もう(中身が)アメリカ人になっちゃったんじゃない」というものです。ハグや挨拶、英語なども含めてアメリカ人的な言動が増えているのは確かです。が、多くの人は渡米前が100%日本的だったのが10年経って80%アメリカ20%日本になった、という具合に全体のパイの大きさが変わらない変化を想像しているようです。しかし実感としては、それぞれの文化がカバーしている部分がズレているので、渡米前の100%日本的な自分に、アメリカでサバイバルする中で身についた50%なり80%なりが多少かぶさりながら上に加わる、という具合でしょうか。なので、%で表すのは的確ではないですね。

例えば、ニューヨークに引っ越して最初に私がためらったのは口約束の軽さでした。映画の話をしていて「じゃあそれオレも観たかったから来週、一緒に見ようぜ!」的に盛り上がったとしても、数日経って連絡をとってみると「ごめん!もう見ちゃった!」と言われたり。来週に入って連絡したら「ごめん今週ずっと忙しい!」と言われたり。あの口約束は何だったんだ…と憤ることがたくさんありました。アメリカはかなり具体的に予定を決めるか、直前になって再度確認を取らないと予定が実行されないことも多いわけです。こういった習慣は、10年たった今でも私は慣れません。「約束は口約束でも守る」という習慣は日本で強く守られているし、それで育ってきたので私にとってはその部分を「アメリカ的になる」のは難しいのです。

しかし日本的な慣習の中に存在していないもの、日本的なコミュニケーションでは表現方法が無かったもの、に関してはまるでポッカリと開いてた穴に水が注ぎ込まれるように自然と習得してしまうことがあります。

異文化に慣れるのは、日本文化がカバーしていない部分から

その代表例はボディランゲージ。知らない、という意味で肩をすぼめたり、自分が気に入らないもの(たとえば電車の中で大音量で音楽を流す人が現れたりすると)を見た時に首を振ったり目をぐるりと回したり。親指を立てて承認や同意や称賛を示すといった行為は英語力に関係無く、多くの日本人が渡米してすぐに習得します。

これは想像ですが、ボディランゲージが強い文化圏の人はアメリカに引っ越してもボディランゲージは母国のものが強く残るのではないでしょうか。しかし日本ではそれほどボディランゲージは強くないのでこういったアメリカ式のボディランゲージがすっと導入されるわけです。(でも相手にお辞儀をされると瞬発的にお辞儀をしてしまうのが好例です)。

私の親しい友人でアメリカに5年ほど住んだものの英語力は全く向上しなかったけれど、本人も気付かない間に肩をすぼめたり、人のつまらない冗談に無言で首を振るというアメリカ人的なリアクションを取るようになった人がいました。

これも「埋まっていなかった穴にアメリカの水が入った状態」です。こんなふうに、日本的な慣習の中に「穴を埋めてくれる水」が存在していない分野は、どんどんと「アメリカ化」が進むわけです。

表現のツールを身につけると、使いたくなる

日本に帰ってきて日本常識マッスルメモリーが完全復活した後でも、誰かがクシャミをすると「Bless you」と言いたくなるのは私がアメリカ人的になったからというよりも、一度何かを表現するツールを見つけると人間はそれを使いたくなる、という特性から来ているのかなと思います。もしもクシャミを聞いたら「天上天下唯我独尊!」と声を掛ける習慣が日本に根付いていたら、私は10年アメリカに住んだ後でもクシャミを聞くたびに「天上天下唯我独尊!」と叫んでいたに違いありません。

日本とアメリカを行き来していると、自分は常にちゃんと頭で考えているつもりでいて実際は、状況に合わせて、あらかじめ決まった穴から、そこに入っている水が反応しているだけじゃないか、と思うことばかりです。ジーザス!やシット!といった言葉で自分の怒りや憤りを表現することを学んだ私は、それを知ってしまったが故に日本語で同じことが気軽にできなくてストレスを感じます。両親に久しぶりに再会すると喜びでハグをしてしまいます。その一方でアメリカで人が話にグイグイと言葉を挟みこんで来ることにイライラもします。結局は自分が与えられた環境ごとに順番にポッカリと空いていた穴に水が入っていって、それに操られている私の自由意志はどこに?と思ってしまうわけです。

私は日本で生まれ育ったものの、3歳の時に英語で歌って遊んで芝居をする団体に入れられたため、英語との出会いは非常に早く、そして体験に基づいたものでした。幼少期に外国語に触れることのメリットはたくさんあると思います。逆に、大人になってから外国語を勉強する難しさは「母国語(日本語)を知っていること」にあります。どんな状況でもまず日本語が思いついてしまう。何かを見たり聞いたりした時に日本語のカテゴリーで頭の中で分類してしまう。すでに穴に水が入ってしまっているので、そっちが反応してしまうわけです。

もちろん、幼少期の脳と発達した脳では生物学的に違っているので、その違いのほうが大きいのでしょう。しかし大人になっても、催眠術で「日本語を忘れる」ことができれば、子どもが英語を習得するように短期間でペラペラになることができるんじゃないか…なんて妄想をしてしまいます。

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本文は以上ですが、日本に久しぶりに帰国して外国語のレストラン名の多さに改めて感心しています。東京で滞在していた目黒駅の近くで見つけたケーキ屋はスペルが「Dalloyau」。読み方が全く見当もつかなかったので店員に聞いてみたら「ダロワイヨ」でした。フランス語はyauでワイヨになるんですね。