カテゴリー別アーカイブ: とりま。(NY、パリ、東京在住の3人によるコラム集)

訛り

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

パートナーの仕事の都合で、この10月からカナダはトロントで生活しています。カナダのニュースを聴いているとよく耳に入ってくるのが「国境の南では(south of the border)」という表現です。これはもちろんアメリカのことを指しているのですが、ニューヨークに住んでいた時にはほぼ全く聴くことの無い表現でした。もちろん、アメリカでも南カリフォルニアやテキサスまで行けば「国境の南」という表現が乾いた風に乗って聴こえてくるのでしょう。その場合はもちろん、メキシコを指すわけです。

トロントはまさに国境に面した大都市で、目の前に広がる湖の向こう側はすぐにアメリカです。ナイアガラの方に行くと短い橋でいくつもアメリカとカナダがつながっています。先日、アメリカから送ってきた家具を国境で受け取りに出向いた時には気をつけて運転していたつもりでもうっかり、間違って国境を越えてしまうというトラブルに合いました。それも二度も。二度目は国境の検査官にこっぴどく怒られてしまいました。国境を越えるつもりがなかったのでパートナーはビザを携帯していなかったのです。

「オマカセ・フォー・キッズ」の日本語字幕をつけていると、頻繁に「国境のこちら側/あちら側」というコンセプトについて考えます。マスヤマ氏がこちらのエントリーで紹介していますが、「オマカセ・フォー・キッズ」は本格的な日本食を食べたことが無い海外の子どもたちに、和食のフルコースを振る舞い、彼らの正直なリアクションを撮影するというドキュメンタリー(未公開)です。

日本で生まれ育った我々からすると思い描くだけで胸がほっこりと温かくなるような、味噌汁や茶碗蒸しといった料理も、ニューヨーク、スペイン、フランスの子どもたちは「まずい!」と一蹴してしまうこともあるわけです。

料理や音楽など「国境を越える」と言われているものはたくさんありますが、それでもそれぞれの個人の体験や人生から独立して料理や音楽の良さが存在しているわけではないのだな、と思わされます。

アメリカからカナダに渡ってきた私からすると、カナダ訛りはやはり印象に残ります。寒い地方の訛りらしく、口をあまり開かずにモゴモゴと話す様子は「うーんいかにも訛りっぽいな」と思ってしまいそうになりますが、カナダ人からするとアメリカ英語の方が大げさな訛りに聴こえるわけですね。仕事でSarahという名前の女性に会ったのですが、私が彼女の名前を呼ぶと「私がニューヨーカーだったらそんな名前だったかもね」と言われてしまいました。料理も同じなのかもしれません。私なら全て「美味しい美味しい」とたいらげてしまうだろう和食のフルコースを、子どもたちが「これは食べられる」「これは美味しくない」と評価していく様子はなかなか見ていて解放的です。

と同時に、「お前たちも大人になったら大金を払って和食のフルコースを食べたくなるのだぞ、ウヒヒヒ」と意地汚い気持ちにもなります。子どもから大人になるにつれて味覚が変化する科学的な仕組みは私もよく分かりませんが、参加した子どもたちが数年後に自分の出演しているビデオを見た時にどう思うかは非常に興味があります。寿司に手すら付けない様子に憤りを覚えるのでは…というのは日本人の大人である私の希望的な(そして性格の悪い)予想です。

しかし食に限らず、自分が嫌いだったもの、無関心だったものが好きになる瞬間というのがあります。クラシック音楽に興味がなかった人が、一曲だけ好きな曲を見つける、そこから少しずつ自分が好きだと思う作曲家を見つけ始める。日本食は嫌いだと思っていたイタリア人がイタリア料理と似た和食メニューをきっかけに日本食の中でも好きなものを見つけ始める。こういった変化こそが人生を豊かにしていくのだと思うのですが、なかなか日常でこれを見つけることは難しい。「ほらこういう具合に比べてみると、こっちの方が良いでしょう」と自分の中に存在していたセンスを掘り出して見つけてくれるような人生の先生を見つけたら、その先生は離さない方が良いでしょう。

自分の周りの中に思わず見つけた興味の対象を、追求し始めて気付いてみたら国境の逆側に来ていた。ああ、そういえば昔の自分はこちら側の言葉を「訛り」だなんて呼んでいたな、と驚いてしまう。そんな事が、たくさん皆さんにも起きますように!

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本文はここまでですが、埋め込んだビデオはイタリア人作曲家であるAdriano Celentanoが1972年に発表したもの。アメリカのロック音楽がイタリア人である彼の耳にどう聴こえるかを模したものです。そうです、ここで歌われている言葉は全くのでっち上げ。「アメリカ人の歌っぽいもの」を作っているんですね。確かにボブ・ディランを思わせる歌い節です。

これを見ていると3歳の甥っ子が大人の話し方を真似ている様子を思い出します。「ごにょごのみゃみゃでしょー!」「だだだねらねらなのー!」とメロディと語尾(「でしょ!」や「なのー!」)だけを真似て意味の無いでっちあげ言語をずっと話しているのです。しかしいずれ彼ももっと多くの言葉を理解し話すようになると、このでっちあげ言語側の住人になるのです。そうか子どもは常にたくさんの“国境”を越えているのだな、と思う次第です。

 

料理は苦痛か?~フランスのキッチンから~

Text by Segawa Yuta    文:世川 祐多

おパリの庶民キッチン

6年間パリに住んで、3回家が変わったから、パリの典型的なアパルトマンのキッチンを経験した僕。

金をかけてリフォームしてIHにしてある家はもちろんあるが、パリのキッチンは、もちろん部屋が狭いからキッチンも狭く、ガスはあまり引かれていないから、電気コンロが主流である。

ヨーロッパの謎で、いつまでたっても旧式のものが、世代交代しないで存在する謎がある。

電気コンロ、IHに駆逐されていてもいいと思うのだが…

また、パリの人々は日本人のように、都市ガスだのにこだわって、ガスを常備したいするという気持ちがないと思われる。というより、パリの街は現代社会に追いついていないから、設備を増やすことは厄介を増やすだけである。

たとえば、人口増加に耐えられない、小さな6両編成のメトロ。またメトロには、ハンディキャップのある人や子連れ年寄りには酷なことに、新設の路線を除きエレベーターもエスカレーターもない。しかもあってもしょっちゅう止まっている。

昔々の建物に、細い配水管と電気をようやく設置しているから、全てにおいて使い勝手が悪く、しょっちゅう問題を起こす水回りと電気。

例えば、僕はウォシュレット欲しいなと思うが、トイレにコンセントなど設置されていないから、そもそもつけられない。そういう勝手の悪さである。

なので、ガスがあるということは、電気代+ガス代になるわけだし、設備管理も増えるわけで。ガスも時々あるけれど、パリには電気が精一杯なのである。

さて、これが、その電気コンロPlaque électrique

これが実に料理がしにくい。

熱されてしまうと、当分コンロが冷めない。そして、マックスの温度も火のようには上がらないから、炒め物とかがあんまり気持ちよく決まらない。チャーハンとかが水気が飛び切らなくてうまくできない。

だから、苦痛というわけではないが、料理をする気合が全く、入らない。

部屋が狭いと炒め物の匂いとかが部屋に充満するし…

ガスとキッチンから始まる料理生活

やはり料理をするには、それなりの広さの家。気分が高揚するキッチンが必要とは、僕の持論である。

僕はフォンテーヌブローに移住したばかりである。

フォンテーヌブローはパリの東南70キロにある世界遺産の地方都市で、緑豊かで、ロッククライミングの聖地でもあり、グーグルマップを見るだけでもこの街が特殊だとお分かりいただける。

この街は、こざっぱりしているから、どこかのタイミングで都市ガスの整備をしたと見え、都市ガス完備の我が家は、相当満足できるキッチンである。

やっぱりガスだ。

火加減の調整はうまく行き、煮込み・炒め・茹で・何でも思い通りにできる。

キッチンが満足できるものだと、様々のものにこだわっていきたくなる。

コーヒーの豆挽き、直火式のエスプレッソマシン、良さげな塩などなど、調理器具や調味料にも気合が入り、さながら貧乏独身貴族みたいなこだわりが出てくる。

こうなると人によるであろうが、料理がしたくなってくる。

形から入る男の僕のこと、なおさらである。中身は伴わなくてもよい。

わりに、家事は好きな方なので、それなりにこの家のキッチンや炊事洗濯を気晴らしを兼ねて満喫して、いつでも隠居し、主夫になる準備だけはしておく。

商店街とマルシェが生きている街

相当気に入って暮らしている街、フォンテーヌブローであるが、ここは火金日に立つマルシェが有名であり、野菜・肉・魚・チーズ・乾物・ワイン何でも美味いものが手に入る。

マルシェのある八百屋の親父は、車寅次郎ばりの口上で、お買い得の掛け声をあげるので、どうやらフランスにも紋切り型の口上があるらしい。

マルシェの野菜は新鮮そのもので、色からしていい。

魚は日本に劣るが、肉は赤々としていて、絶品。

ただし、どうしても日本に生まれ育った僕としては、フランスの食事は重いので、軽い料理の方がいい。

なんだかんだ、自然と地場のもので、和風のようなものを試行錯誤していくことになる。

例えば、日本ではなかなかないが、贅沢にも、フランスは鴨に潤沢である。

鴨を買ってきて、塩と胡椒で、焼いて、食べる。付け合わせは何かの野菜。

鴨で、ウイキョウだのアンディーブだのの野菜をブッ込んで鍋にしても美味い。

こういう、野郎の料理でも、十二分に料理は日々の気晴らしになる。

本当は日本酒党だから、そういきたいが、そこは赤ワインで辛抱。

街の中央にある、商店街には、気に入った八百屋・肉屋・魚屋・ワイン屋・シャンパン屋ができたから、そこに馴染みになり、ちょこちょこ美味そうなものを買っておく。

料理には気持ちの高揚する買い物も重要な要素である。

フォンテーヌブローと、日本の市場やデパ地下や、谷中銀座的商店街は、料理系で日々の庶民生活をワクワクさせてくれるお買い物空間であることは間違いない。

快楽としての料理

ルーティーンは、僕が最も苦手とすることの一つである。

何かの刺激や変化がないとどうもつまらない。

酒と女は修行ばかりでつらい男の人生を慰める絶対不可欠のこの上なく大きな要素。

そして、料理人ではなくとも、日々の生活で料理をするということは、女ほどは快楽をもたらしてはくれないが、男のプチ快楽にはなりうる。

女の人が、料理が苦痛というなら、それは、家事の一環として、何か家族に食べさせなきゃということで、レシピを頭の中でひねり出しながら、何とか料理をつくらなくてはいけないというルーティーンと化すから、苦痛なのかもしれない。

自分に何かを強いる時、それは苦痛でしかない。

僕は運転が好きだからいいが、運転嫌いの人が相当いて、必要に迫られて、毎日のように運転せざるを得ない人たちは、結構苦痛らしい。

主婦・主夫でも、料理したい。料理しよう。という気合からの行動ではなく、料理しなきゃになった時点で、もう終わっている。

そういう時は、ルーティーンから抜け出すトライはした方がいいかもしれない。

一度、とある会社で、そこのキッチンを使って、家庭に来てレストランをしてくださる、すごい料理人の方の料理を堪能したことがある。家庭をレストランにするというひねった趣で、めちゃくちゃ面白いし、私的空間で料理人を呼んで料理を食べれるなんて素敵だ。

こんな風に職人さんを家に呼んじゃう。とか、母親や妻としてのルーティーン料理をサボタージュして、旦那や子供を数日間奴隷のように酷使して家事をさせるとか、なにかゲーム要素を取り入れてもいいかもしれない。

さて、私は料理人ではなく、普通の男なのでルーティーンとしての料理ではなく、適当に料理の道楽を極めてみたい。

男なら、タモさんぐらいの道楽者にはなってみたいものだ。

『料理が苦痛だ』

Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

料理が苦痛だ』(本多理恵子著/自由国民社)という本を読んだ。「料理が苦手」でもなく「下手」でもない。当たり前だ。著者は鎌倉でカフェを経営し、人気の料理教室を主宰する女性なのだから。

私自身は、料理が「得意」でも「上手」でもないかもしれないが、「好き」であることを公言している。しかし、この本を読む前から強く感じていたのだが、私が「料理好き」と気軽に言えるのは、それが義務ではないからだ。1人暮らしなので、好きな時に、好きなものを、好きなように作ればいい。あり合わせのモノでチャチャっと作ることも多いが、2日前から準備して(それなりに)凝った料理を人にふるまうこともある。

本書の著者が言う「苦痛」とは、「家族のために」「ちゃんとした料理」を「作り続ける」ことだ。確かにそうだろう。家族が終日居る日などは、朝・昼・晩と、準備や片付けを含めれば、1日のほとんどを料理に割かなければならない。一方、家事の中でも掃除や洗濯が「好きではない」人は多いかもしれないが「苦痛」とまで表現する人は、あまり居ないのではないか?それは、料理だけが「毎回違うアイデアと作業」を期待されるからだ。

そしてこの「期待」は、かなり日本的な現象ではないかと思う。本書でも、料理が苦痛であることの理由のひとつが「『毎日』『毎回』違うおかずを作るという呪縛」と表現され「日本ってご飯に手間をかけすぎてない??」と疑問を呈する。そして、苦痛や呪縛から逃れるための対処法が爽快なくらいシンプルだ。

「料理をやめる!」

これは、自分にとっても家族にとっても、毎日あたり前のようにやり(やってもらい)、食べていた料理/食事という活動を、いったん突き離して、それにどんな価値や意味があるのかという「対象化/相対化」の手順なのだと思う。私自身は、料理ではなく「食べるのをやめてみる」(断食!)を、年に2~3回、伊豆にあるリゾート的な専門施設でやるのが、ここ数年の通例になっている。「食べないこと」ほど、食の価値や意味を深く実感させられる行為は無い。少なくとも、私にとっては。

これは、他のことにも応用できそうだ。

・スマホもPCもやめてみる!
・徒歩以外の移動手段をやめてみる!
・性的な行為をやめてみる!
…etc.

本書では、料理をやめるための準備期間、そして実際にやめている間に、どういうことをすべきなのか、とても納得感のあるアドバイスが書かれている。そして、自分で決めた一定期間の後は「料理を再開する」のだが、そこに挙げられた「これなら作れるレシピ集」が、料理好きにとってはとても興味深い。本でもネットでも「簡単、ラクチン、○分でできちゃう!」という売り文句のレシピは数多いが、それとはやや発想が違い、料理をする人の「やる気」をもっとも重視するのだ。いわく「料理をしなくてもいいから、まずはキッチンに立ってみましょう」。

レシピの詳細など、ぜひ本書にあたってみてほしいが、ここで、私が日常的に「おもてなし」で使う、料理ともいえない「食べ方」の方法を紹介しよう。これは、今まで出した人全員にウケた「最初の一品」である。

材料
・木綿豆腐(なるべく豆の味が強そうなものがベター)
・オリーブオイル(エクストラバージンがベター)
・塩
・醤油

下準備
・豆腐をペーパーでくるみ、重しを乗せて皿を傾け、室温で1時間くらい水を切っておく。

レシピ(というほどでもない…)
・豆腐を小さく(切手2つ分くらい)、薄く(1cmくらい)、4つ分切る。
・4通りの味つけで順番に豆腐を食べる。

1:何も味つけしない。
2:少量の塩
3:塩とオリーブオイル
4:少量の醤油

冷奴、というか、豆腐をそのまま食べようとする場合、多くの人は「何も考えずに醤油をかける」のではないだろうか。もちろん、ショウガ、ネギ、鰹節などをかける人も居るだろう。しかし、ちょっと待った!皆さん「素材の味を楽しむ」のが好きではないんですか?豆腐って(もちろんモノによるが)、そのまま食べても充分美味しい。この順番通りに、小さな豆腐を口にすると、最後の「醤油」がいかに強い味つけの調味料かが実感できる。

これは、私が行く「断食施設」で、3日めの「回復食」に出てくる食事からヒントを得た食べ方だ。1日めは薄い味噌汁のみ、2日めはスムージーとスープのみ、という「食べない」日を過ごしてきた舌と脳には、塩も醤油もつけない(鰹節は少量かかっている)ごく少量の豆腐が、最高の美味と感じられる。この4種以外にも、マヨネーズだろうが、フレンチマスタードだろうが、一般的に味つけに使われる調味料なら、なんでも試せるはずだ。この手順ですら「苦痛」と感じる方は、おそらく「料理に興味が無い」のだと思う。
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ツカサくん、ユウタくん、本文は以上です。書評にするつもりで書き始めたのですが、最後、まさかのレシピ!笑。このシリーズ、続くかもしれません。

バルセロナとミラノで和食を!


Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

「和食」は世界の子どもたちに受け入れられるか?

ショートムービー『オマカセ・フォー・キッズ』の撮影で、スペインのバルセロナとイタリアのミラノに行ってきた。ムービーの内容は、現地の子どもたち(小学校低学年)に、本格的な和食のフルコースを食べてもらい、そのリアクションやコメントを撮影、編集する、というものだ。これまでにも、ニューヨーク、フランスのブルゴーニュで撮影をしてきて、今回と合わせて4本できることになる。「和食」を通じた日本文化のプロモーションを目的とする、一般社団法人MAMの非営利事業のひとつであり、2019年にはネット上で無料公開の予定だ。

フルコースどころか、普通の和食もまったく知らないアメリカやヨーロッパの子どもたちが、初めて本格的な和食を食べるところを見ていると、毎回色々な発見がある。まず「食べないものが多い」のだ。肉を食べない子は、今のところ居なかったが、魚がダメ、キノコがダメ、生ものがダメという子は少なくない。味つけにも好き嫌いがはっきり出て、ダシの味が好きという子はほぼ皆無、一番驚かされたのは「醤油がダメ」という子だった。子どもたちを選ぶときに、食べ物の好き嫌い等は考慮せず、自然なリアクションをしてくれることを優先しているから、という理由もあるにはあるが。

「和食」というのは、実はとても不思議な文化だと思う。言うまでもなく、日本文化は歴史的に中国から大きく影響を受けていて、ここに書いている文字の一部も「漢」から来たものだ。衣食住のうち、衣も住も、近代以前は中国の影響が強いと言っていいだろう。食も、コメが主食なこと、箸や醤油を使うことなど、中国と似ている部分が無いわけではないが、一般的にイメージする「中華料理」と「和食」は、かなり異なっているのではないか?

典型的な例を挙げれば新鮮な「生魚」や「生卵」を日常的に食べるのは、とても和食的である。アメリカ、ヨーロッパでは、生で食べるのは牡蠣と貝の一部のくらいで、シーフードのイメージが強いイタリアやスペインでも、生魚を日常的に食べる習慣は無い(生肉はタルタル・ステーキとして人気がある)。

もちろん、海外で「スシ」は大人気であり、ちょっとしたスーパーならパック入りのものがごく普通に置いてある。しかし、その中身は火が通ったサーモン、エビ、アボカドなどがメインで、新鮮な生の魚介類が入っていることは稀だ。日本人がイメージする生魚メインの「スシ」を食べるためには、それなりの値段を取る飲食店に行く必要がある場合がほとんどだ。

また「サシミ」も、いわゆる「ジャパニーズ・レストラン」(日本人以外の経営も多い)では定番メニューだし、料理の名前としても世界各地で通用する。しかし、日本のようにスーパーでごく普通の食材として様々な魚介類が生で置かれているということは、まず無い。そもそも、生食する文化が無いので、魚の獲り方、絞め方、輸送、販売の仕方までが生魚に対応していないのだ。

ここで念の為、記しておきたいのだが「和食は素晴らしくて、世界に冠たる文化だ」という優劣を含んだ含意で書いているわけではない。「食」は、数ある「日本文化」の中でも、特にユニークなのではないかという仮説である。世界レベルで見れば、和食よりも、ハンバーガー、ピッツァ、パスタや、一部の中華料理の方が圧倒的にポピュラーであるのは間違いない。

欧米に長く居ると食べたくなるのは?

さて、あなたが、すでに数週間という単位でアメリカやヨーロッパに滞在しているとしよう、宿泊はホテルなのでキッチンは無い。大都市なので和食店もあるが、だいたいの場合、高額でそれほど美味というわけでもない。あなたは、何が食べたいと思うだろうか?

おそらく、多くの人は…

「あっさりしたもの」
「さっぱりしたもの」

…が食べたい、と言い出すのではないだろうか?冷奴、蕎麦、酢の物…etc.。

これは、複数の欧米人に軽く聞いたのだが、彼らは「あっさりしたもの」や「さっぱりしたもの」という概念が強くないように見える。もちろん「軽い食事」という表現は、ごく日常的だが、それにはハムやチーズも含まれてしまうので、我々がイメージする「さっぱりしたもの」というとレストランやカフェではサラダやフルーツ、くらいしか選択肢が無いのだ。

また、和食では料理に「油」を使わないことはよくある。味噌汁、おひたし、漬物、茶碗蒸し、焼き魚といった典型的なメニューでは、油は不要である。これもあるスペインの女性から直接聞いた話だが「オリーブオイルもワインもチーズも使わないで料理をする。それでも美味しいものができるなんて、想像もつかない!」のだそうだ。

和食という「料理」から離れてみても、日本の食生活は独特といえる。あなたが、朝はパンとハムエッグ、昼は中華だったとしたら、夜には何が食べたいと思うだろうか。おそらく中華ではないだろう。昼がパスタであれば、イタリアンではないだろう。そう、日本では「毎日、朝・昼・晩」そして毎日と同じようなものを食べることは、あまり歓迎されない。それは外食であっても自炊であってもだ。

しかし、私が知る限り、日本のような幅広い調理法や味付けの食事を、日常的にしているのは、ごく一部のフーディと呼ばれる飲食マニアか、さらにごく一部の富裕層だけである。今回、イタリアでは合計3回、イタリア人の友人宅で食事をごちそうになったのだが、出てきたのは、日本的感覚からすれば判で押したように似たようなもの「チーズ、パスタ、つけあわせの野菜」、そして飲み物はすべてワインである。

2015年12月30日のCNNの記事は、東京は「世界一の美食都市」であり、食材も素晴らしく、料理人の意識も技術も極めて高いとしている。今回、私が訪れたのはスペイン、イタリア、フランスと、日本では「美食」のイメージが強い国ばかりで、実際に現地ならではの素晴らしい料理も少なくないのだが、料理のバリエーション、繊細さという意味では、CNNに同意できると思う。世界の子どもたちが、本格的な和食を、どう食べたのか?ムービーの公開まで、少しお待ちください。

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本文、以上です。ツカサくん、ユウタくん、前回から一ヶ月以上も空けてしまって、ご心配おかけしました。フォンテーヌブローのユウタくん宅を訪ねてからも、すでに一ヶ月…。まぁ、ある種のユルさはあってもいいと思うんですが、ちょっとユルすぎですね(笑。埋め合わせ(?)に、数日後にもう1本アップします!

フランスナイズ Oui ou Non !? ~郷に入れば郷に従いながらも、残したい日本人性~

Text by Segawa Yuta    文:世川 祐多

大阪の人は明るくて、すぐボケに乗ってくれるというように、みんながみんなという訳はなくとも、国民性、県民性といったある一定のエリアの人たちのなんとなく共通する性質というものがある。これは科学では立証しづらい概念でもある。

でも、たとえば、車が全く来ない車道でさえ、横断せずにモラルを優先するのが、日本人ならば、車が来ないなら渡るべしという合理性を優先するのがフランス人。これを国民性と言わずしてなんと言おう。

たしかに、こちらに住むと、信号無視を平気でしてしまう体になる。逆に、車が来ない赤信号を渡らずに律儀に待っている方が杓子定規でおかしい気さえしてくる。

この件に関しては、自分自身「別にまあ、人に迷惑かけてる訳じゃないし、フランスだからいいんじゃん」と思っているが、他方「こうはなりたくないし、日本人の一人としても、フランスナイズしないでおこう」という所作がある。

この最たるものは、電車や、バスで絶対に並ばないフランス人の習性である。

パリでは特に、メトロのドアが開いた途端に、降りる人を待たずに人がなだれ込んでくる。降りる人をドアのサイドによけて通り道を作ってやることなどない。

であるから、否応なしに人を押しのけざるを得ない状況になることが多い。

メトロにも日本のように乗車位置などは、マーキングされていないし、後から来た人間たちが先にホームにいた人に憚ることなく、どんどん乗車していく。

これは、地方でもバスに乗るときなどに、バスが来るやいなや、随分前から待っていた人がいて、年寄りもいるのに、それに構わず、人々がじゃんじゃんバスに乗車していくのが常だから、現代フランス人は人品において、残念な人が多いのだと思う。

この点に関しては、フランス人は、並ばないことで有名で、彼らが蔑視する中国人を非難することはできない。極めて卑しきフランス人の習性と言える。

日本社会も多々問題はあれど、例えて、記憶に新しい、東日本大震災における、秩序乱れぬ人々に対する世界中の驚きと賞賛は、日本人が秩序を重視するという国民性なのだということを再確認させてくれた。

こちらに住めば、フランス人は天変地異や戦が起きれば、人様のために、秩序のためにという心より、自分が助かり、自分が安全であればと、エゴに走るに違いないと気づかされる。

故に、日本人にとっては秩序を乱さないというごくあたりまえのことを、やたらめったら世界の国々が称揚し珍しがるのも宜なるかなと思う。

他方、フランス人のまだマシなところは、日本に観光などで来た時に、そこは日本の文化や秩序を尊重して、並んだり、おとなしくできるところにある。

きっと、本当は並ぼうと思えばできないわけではなく、やればできる子フランス人であるとは、思っている。救いようのないバカとまではいかない。

逆に日本人が海外に住むとなれば、郷の文化に溶け込み、郷の習俗にある程度従いつつも、日本人としての美徳は失うべきではないと考えている。

僕は、バカもたくさんやる。

しかし、一日本人としての自負と矜持があり、たとえフランスに住んでいようとも、30秒も車が来ない赤信号を無視するというような人様に迷惑をかけないルール違反はしたとしても、やはり所作には気をつけ、割り込んだりするという、卑賤の振る舞いに関しては決してフランスナイズされず、日本にいるときのままにありたいと思うのである。

マスヤマコムロスバゲシーンの妄想

日本では普通起こり得ないし、万一起こっても、お詫びの金品とともに、丁重にケアがあるはずであるロスバゲ。しかし、現代ヨーロッパ人の性質といえば、まず、係員は「私のせいじゃない」
と言葉と態度で突っ張ってくるはずである。であるから、こちらもそれ相応に構えて対応しなくてはならない。

日本人にも鬼畜クレーマーなど変なのはいるが、通常欧州にて、被害者が非日本人の場合、こういう時、わめき散らしたり、怒鳴り散らす光景を目にすることは多い。

また係員は、こういう問題対応にあたっては、怒鳴られるのが常だし、係員的職業は人類平等を建前とする欧州世界にあって、実際社会的地位も低いから舐められているので彼らも突っ張るし、という悪のスパイラルである。

これに我ら日本人が巻き込まれた時はどうなるのだろうか。

私はマスヤマコムを知っているが、マスヤマコムもまた、うんざりするような、ロスバケ初体験に遭遇された時、ギャーギャーわめき散らしたりする人ではないし、係員に喰ってかかったりしていないことは容易に想像できる。

九鬼周造先生のおっしゃる典型的日本人の観念「諦め」
を発動させて、諦めていたロスト中のバゲージが謎の出現を見せたところで、ラッキーと喜んでいたに違いない。

確かにロスバゲの被害など、不都合の極地であるが、日本人の所作の美は、こういうことが起きたときに、騒いでも何にもならないんだから、その運命を諦めて受け入れ、スマートに係員に対して交渉することであり、これははっきり言って世界中の人を見渡してみても、日本人ぐらいにしかできないと思っている。

コンドウツカサの久しぶりの日本上陸シーンの妄想

僕もさしてフランス語が上手くないのに、たまに日本語が出づらくなることがある。

これはフランスに居すぎて、ちらほらフランス語で、頭が考え出したという証でもある。

日本に帰れば、簡単な単語を失念してルー大柴になりかけたり、赤信号を無視しようとしたり、特に、左側通行にすぐに順応できず、横断歩道では右に首を向けて車が来ないか確認しなきゃいけないのに、左に首が動いたりおかしなことになる。

きっとコンドウ氏も日本語を話していて、言葉の合間にYou knowとか入れたくなってるのではないかと妄想する。

しかし、コンドウ氏の文を読めば彼がアメリカ風を吹かそうとしている訳ではないことに気づく。

ここはおフランスに長年おわします世川大先生が仰せのこととして受け取っていただきたいのですが、アメリカ帰りの人間が日本でどういう振る舞いをするかはしりませぬが、おふらんすの日本人が日本に帰った時に、おフランスの風を意図的に吹かそうとして、日本人を見下し、カッコつけ高飛車になるという現象が多くございます。

「きゃー、おフランスすてき!」「おパリ帰り!」みたいな、日本人の妙なフランスへの憧れが、フランス風を吹かす嫌味な人間の存在の余地を許しているわけでございましょうが、これはいかがなものかと存じます。

海外に居すぎて、その郷に上手く溶け込めたために、日本に帰った際に、条件反射的に体が動いてしまっている海外帰りの人なのか、それとも、海外に居た割には何もできないまま、コンプレックスの裏返しのように、日本で私は洋行帰りなのよの風を吹かす奴なのか、日本の皆様にぜひ香道のように嗅ぎ分けていただきたく存じます。

ハグを知った身体はもう元には戻れない

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

空港でスーツケースを預ける時の自分と、目的地でスーツケースをピックアップする時の自分は、違う自分。そんな感覚が私にはあります。自分が生まれ育った国を離れて生活していると、どうしても違う言語、違うルール、を身につける必要があります。日本とアメリカの場合、似ている側面もあれば、違うところはとことん違う。どちらの国の常識も脳みそから指先まで、マッスルメモリーのように染み込んでいるけれど、同時に使うことが無いので自分の中に問題無く共存しているわけです。

ニューヨークJFK空港では英語でカウンターの職員と会話をし、スーツケースを渡し、飛行機の中でグラグラ揺られ、たまに日本語が話せるキャビン・アテンダントと会話をしながら少しずつ身体の中の「日本常識マッスルメモリー」がむくむくと力を取り戻してくる。日本に到着してスーツケースを取り上げる時にはもう、完全に日本ルールで街を闊歩できる自分を取り戻します。

常識マッスルメモリー切り替え失敗

1年前に、実に7年ぶりに日本に一時帰国をした時はこの「常識マッスルメモリー」の切り替えを上手くできずに、まるで外国人観光客のようにズレた行動を連発してしまいました。他人でも目が合うとニコっと微笑を作る。レストランやスーパーの店員に挨拶をする。レジの横のお金を入れるトレーを無視して、店員に現金を押し付け続ける。小さな歩道で車が通っていない時に身体が信号無視をしたくてウズウズする(ニューヨークでは警察官も歩道の信号無視をします)。リュックのチャックが空いている人がいると呼び止めて教えてしまう。電車の駆け込み乗車はもちろん、眼の前で閉じそうになる電車のドアを手で抑えたくなる衝動に襲われる。などです。挙げればキリがありません。

中でも抵抗するのが難しい「アメリカ常識マッスルメモリー」がハグや握手です。日本に帰って高校や大学の友人と久しぶりに会って「おぉー!」と興奮するとつい考える前に身体が両手を広げてハグをしようと自動運転を開始するわけです。「違う違う、この人とはハグはしないんだった」と脳みそが身体を制止する必要があります。と、こんなことを書くと「アメリカかぶれがイキがってるな」と言われそうですが、実はこの現象、ただ何かにかぶれる/かぶれないということでなく、文化や言語が私達の思考や自由意志(大きく出た!)に与える影響に関して非常に大きな示唆を持っている…と私は思うんです。

「もうアメリカ人になっちゃったんじゃない」

アメリカに10年住んでます、と言うとよく頂く反応は「もう(中身が)アメリカ人になっちゃったんじゃない」というものです。ハグや挨拶、英語なども含めてアメリカ人的な言動が増えているのは確かです。が、多くの人は渡米前が100%日本的だったのが10年経って80%アメリカ20%日本になった、という具合に全体のパイの大きさが変わらない変化を想像しているようです。しかし実感としては、それぞれの文化がカバーしている部分がズレているので、渡米前の100%日本的な自分に、アメリカでサバイバルする中で身についた50%なり80%なりが多少かぶさりながら上に加わる、という具合でしょうか。なので、%で表すのは的確ではないですね。

例えば、ニューヨークに引っ越して最初に私がためらったのは口約束の軽さでした。映画の話をしていて「じゃあそれオレも観たかったから来週、一緒に見ようぜ!」的に盛り上がったとしても、数日経って連絡をとってみると「ごめん!もう見ちゃった!」と言われたり。来週に入って連絡したら「ごめん今週ずっと忙しい!」と言われたり。あの口約束は何だったんだ…と憤ることがたくさんありました。アメリカはかなり具体的に予定を決めるか、直前になって再度確認を取らないと予定が実行されないことも多いわけです。こういった習慣は、10年たった今でも私は慣れません。「約束は口約束でも守る」という習慣は日本で強く守られているし、それで育ってきたので私にとってはその部分を「アメリカ的になる」のは難しいのです。

しかし日本的な慣習の中に存在していないもの、日本的なコミュニケーションでは表現方法が無かったもの、に関してはまるでポッカリと開いてた穴に水が注ぎ込まれるように自然と習得してしまうことがあります。

異文化に慣れるのは、日本文化がカバーしていない部分から

その代表例はボディランゲージ。知らない、という意味で肩をすぼめたり、自分が気に入らないもの(たとえば電車の中で大音量で音楽を流す人が現れたりすると)を見た時に首を振ったり目をぐるりと回したり。親指を立てて承認や同意や称賛を示すといった行為は英語力に関係無く、多くの日本人が渡米してすぐに習得します。

これは想像ですが、ボディランゲージが強い文化圏の人はアメリカに引っ越してもボディランゲージは母国のものが強く残るのではないでしょうか。しかし日本ではそれほどボディランゲージは強くないのでこういったアメリカ式のボディランゲージがすっと導入されるわけです。(でも相手にお辞儀をされると瞬発的にお辞儀をしてしまうのが好例です)。

私の親しい友人でアメリカに5年ほど住んだものの英語力は全く向上しなかったけれど、本人も気付かない間に肩をすぼめたり、人のつまらない冗談に無言で首を振るというアメリカ人的なリアクションを取るようになった人がいました。

これも「埋まっていなかった穴にアメリカの水が入った状態」です。こんなふうに、日本的な慣習の中に「穴を埋めてくれる水」が存在していない分野は、どんどんと「アメリカ化」が進むわけです。

表現のツールを身につけると、使いたくなる

日本に帰ってきて日本常識マッスルメモリーが完全復活した後でも、誰かがクシャミをすると「Bless you」と言いたくなるのは私がアメリカ人的になったからというよりも、一度何かを表現するツールを見つけると人間はそれを使いたくなる、という特性から来ているのかなと思います。もしもクシャミを聞いたら「天上天下唯我独尊!」と声を掛ける習慣が日本に根付いていたら、私は10年アメリカに住んだ後でもクシャミを聞くたびに「天上天下唯我独尊!」と叫んでいたに違いありません。

日本とアメリカを行き来していると、自分は常にちゃんと頭で考えているつもりでいて実際は、状況に合わせて、あらかじめ決まった穴から、そこに入っている水が反応しているだけじゃないか、と思うことばかりです。ジーザス!やシット!といった言葉で自分の怒りや憤りを表現することを学んだ私は、それを知ってしまったが故に日本語で同じことが気軽にできなくてストレスを感じます。両親に久しぶりに再会すると喜びでハグをしてしまいます。その一方でアメリカで人が話にグイグイと言葉を挟みこんで来ることにイライラもします。結局は自分が与えられた環境ごとに順番にポッカリと空いていた穴に水が入っていって、それに操られている私の自由意志はどこに?と思ってしまうわけです。

私は日本で生まれ育ったものの、3歳の時に英語で歌って遊んで芝居をする団体に入れられたため、英語との出会いは非常に早く、そして体験に基づいたものでした。幼少期に外国語に触れることのメリットはたくさんあると思います。逆に、大人になってから外国語を勉強する難しさは「母国語(日本語)を知っていること」にあります。どんな状況でもまず日本語が思いついてしまう。何かを見たり聞いたりした時に日本語のカテゴリーで頭の中で分類してしまう。すでに穴に水が入ってしまっているので、そっちが反応してしまうわけです。

もちろん、幼少期の脳と発達した脳では生物学的に違っているので、その違いのほうが大きいのでしょう。しかし大人になっても、催眠術で「日本語を忘れる」ことができれば、子どもが英語を習得するように短期間でペラペラになることができるんじゃないか…なんて妄想をしてしまいます。

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本文は以上ですが、日本に久しぶりに帰国して外国語のレストラン名の多さに改めて感心しています。東京で滞在していた目黒駅の近くで見つけたケーキ屋はスペルが「Dalloyau」。読み方が全く見当もつかなかったので店員に聞いてみたら「ダロワイヨ」でした。フランス語はyauでワイヨになるんですね。

初めてのロストバ◯◯◯

Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

旅にトラブルはつきもの。笑い話で済むレベルのものもあるし、危険な事故に近いものだってあるだろう。日本に居ると、あたり前に享受している「便利さ」や「正確さ」が、実は海外ではほとんど期待できない、というのは少しでも海外に出たことがある人なら同意していただけるだろう。

ドラマな日々

8月末、かけ足でスペインに行ってきた。目的はひと月後にあるショートムービーの撮影のロケハン、である。目的地はバルセロナなのだが、日本からの直行便はマドリッド行きしか無いので、まずはマドリッドで1泊。翌日、空港に行き、時間があったので軽く食事することにした。カウンターに立派な生ハムの切り出す前の状態(何て言うのだろう?要は「豚のモモから足の部分」だ)をいくつも置いた店があったので、座ってみる。

生ハム(ハモン)を含めて、4品の注文をすると生ハムとミネラルウォーター以外の2品はすぐに出てきた。のどが渇いてきたので、ミネラルウォーターを催促。出てきた。しかし、生ハムが出てこない…。搭乗の時間も迫ってきたので「あぁこれがスペインだ…」と自分を納得させながら、英語があまり通じないサービスのオバちゃんに「チェックしてください。でも生ハム来なかったから、それはキャンセルで!」と強く言いつつ席を立とうとすると、たまたま私の右隣り居たオッちゃんが、私の前に自分が食べている生ハムの皿を差し出し「食べなよ」とジェスチャーで言ってきた!かなり賑やかなオープンスペース作りの店で、私は彼の逆側を向いてオバちゃんに「キャンセル」と言っていたのに、よく聞こえてるもんだな、と思いつつ、嬉しいサプライズに感謝して、一切れだけつまませてもらった。

バルセロナの空港に着いて、バゲッジクレームで荷物を待つ。なかなか出てこない…。今までの人生で、荷物をチェックインして飛行機に乗ったことは、数百回あると思うのだが、バゲッジが出てこなかったことは1度も無い。バゲッジが何らか理由で「ロスト」する確率は、2016年の統計で0.65%。計算すると約150回に1回だから、確率的には正しい?いやいや…などと時間をつぶしていても出てこない…。同じ飛行機に乗っていた乗客が十数人、私と同じように「やれやれ…」という顔をして荷物の出てこないベルトを見つめている。ついにターンテーブルは止まり、空港の職員がピックアップされなかった荷物を集め始めた。

私もあきらめて、バゲッジ関連サービスと書かれた窓口の長い列に並んだ。実は、乗ってきた飛行機は4時間遅れており、すでに23時を回っている…。ロストバゲッジ。私には初めてでも、窓口の職員にとっては日常だ。事務的に連絡先などを告げ、書類を受け取り「通常、明日にはお届けします」という言葉に少しだけ救われる。

スーツケースを持たず、トボトボと出口に向かいながら「万が一」と思い、自分の荷物が出てくるはずだったターンテーブルを見ると、遠くの方に数個、荷物が放置されている。さっき荷物が出てくるのが止まった後、次の便の荷物が出てくるくらいの時間は経っている。どうせ違うだろう、と諸行無常な気分で近づくと、1つめ、2つめ、3つめ…あった!!生ハムといい、バゲッジといい「トラブルの後の救済」という典型的なドラマを、毎日のように体験させてくれる。さすがダリやピカソを生んだお国柄…(これは皮肉ではない)。


前向きなあきらめ

バルセロナでは、泊まっていたAirbnbのエレベータがちょうどチェックアウト時に止まり、7階から手持ちで26kgの荷物を降ろさなければならない…という問題があった他は(その後、数日は筋肉痛)まぁまぁ順調にコトは進み、帰国する日になった。バルセロナから日本へは、北へ向かう方が距離的には近いのだが、スペイン往復の直行便を選んだため、いったん南へ、マドリッドまで国内便に乗らなければならない。通常は国内便から国際便でも、乗り継ぎの空港で荷物は航空会社が載せ替えてくれるのだが、チェックイン時に「これは(国内便と国際便の)予約が別々だから、マドリッドでいったん荷物をピックアップして、再度ドロップしてください」と言われた。めんどうだが、仕方がない。幸い、ターミナル間の移動は無いようなので、少し手間がかかるだけだ。乗り継ぎ時間は2時間近くある。

ゲートから搭乗までもスムース。予定より10分くらいは遅めだが、これくらいは普通のことだ。しかし、搭乗してからまったく動かず、アナウンスも無い。中央に1つしか通路が無い小さい飛行機で、私は前から5番目くらいの列に座っていたので、よく見えたのだが、いったん閉じていた機外へのドアが再び開けられ、蛍光色の作業着を来た技術職員らしい男性が複数乗ってきて、コックピットへと消えた。

10分経っても20分経っても、まったく進まない…。アナウンスも無い。機内の男性CAが、何人かの乗客にスペイン語で話しかけている。私はスペイン語はわからないので「荷物をピックアップする時間が…」とイライラしつつも、どうすることもできない。30分、40分…ついに1時間経ってしまった。最悪の場合は、マドリッドの空港で1泊か?!などと思いつつ、まだ待っていると、男性CAが英語で話しかけてきた

「東京に行かれるんですよね?」

「そうです」

「これはお客様が選択されることですが…荷物を受け取って再度載せる時間が無さそうです。荷物は、そのままにして、お客様は東京行きの搭乗ゲートに向かわれるのがベストかと思われます」

「え?!あ…はぁ」

私自身も、当然、そういう選択肢も考えなくはなかったが、どうしても「自分の荷物をあきらめて、空港に放置する」という行為のイメージがわきにくく、荷物を優先して空港に1泊?とと思っていたのだ。まさか、航空会社側から「それ」を勧められるとは…。

結局、マドリッドには1時間以上遅れて到着。私以上に困った顔の「メキシコ行き乗り継ぎ」の乗客は、降りたとたんに走り始めた。私は、荷物さえ無ければ、そこまであわてる必要も無いので、東京行きのゲートに向かう。機内で言われたとおり、ゲートの職員に「バルセロナからの便から、東京行きに、荷物を載せ替えてもらえないだろうか?」と一応打診してみたものの「無理ですね」と一言。

成田には定刻に着き、ターンテーブルで航空会社の職員にバゲッジのタグを見せつつ状況を説明すると、さすが日本、大変恐縮しながら手続きを進め、税関にも一緒に来てくれた。考えてみれば、1週間のヨーロッパ旅行から戻ってきて、背中のバックパックひとつ、というのもかなり怪しい。バゲッジには急いで必要なものは何も無く、都内の自宅に戻れば、当然、生活に必要なものはそろっているので、まぁ無事に帰って来られたからよかった、無料でバゲッジ届けてもらえるのは、ある意味ラッキー…などと思いつつ、成田エクスプレスに乗った。

それにしても、人生「初めてのロストバゲッジ」が「自主的なロストバゲッジ」になるとは、想像もできなかった…。

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本文は以上ですが、ツカサくん、マドリッドの信号は「LGBT仕様」になってました!

ちなみに、バゲッジが自宅に着いたのは、帰国後4日め。早いのか遅いのか、よくわかりません 笑。

「とりま。」始めました。

Text by Masu Masuyama 文・写真:マスヤマコム

「とりま。」とは、NY/トロント在住の脚本家、近藤司(こんどう・つかさ)、パリ在住の歴史研究者世川祐多(せがわ・ゆうた)、東京をベースに年に3ー4ヶ月は海外に居る投資家/コンテンツ・プロデューサーのマスヤマコム、という3人をメインとして、月に数回のペースで文章を公開してゆく企画の名前である。

カチッとしたテーマがあるわけではないが、日本生まれ、育ちながら海外在住/経験が長い3人なので、必然的に海外の話題が多くなるだろう。ただ、単純な海外体験、旅行記ではなく、結果的に日本や日本文化が「相対化」して見えたり感じたりできるように意識はしている。

作家の佐藤優が『世界史の極意』(NHK出版新書)という本で、ロシアとイギリスの「世界史の教科書」(中高生向け)を比較している。簡単にいうとロシアは「ロシアにとって有利な論理」を展開しているのに対し、イギリスの教科書は「歴史を相対化して、過去の間違いから学ぶ」という姿勢を徹底しているのだ。佐藤優は「歴史認識としては、イギリスの方が圧倒的に強い」としている。なぜなら、イギリスは「自分の弱さを自覚した上で、今の時代(原文では“新・帝国主義の時代)への対応を模索しているから」である。

「とりま。」でも、その意味で「日本を相対化して見えるように」しようとしている。といっても、難しい話ではない。私(マスヤマ)が、海外に行くことが多いと言うと、ほぼ自動的に「いいですね〜」という社交辞令のようなホンネのようなリアクションがあるのだが、それに対して私は「海外に行けば行くほど、日本での生活、習慣、文化の素晴らしさを実感しますよ!」と答えることにしている。これも、ひとつの「相対化」と言えるだろう。

なお「とりま。」というのは「トリオ(3人組)」という単語をいじっているうちに出てきたネーミングであり、どう解釈していただいてもかまわない。とりま、始めました。

どうやって人と出会うのか?パリもお江戸も都市民はつらいぜ

Text by Yuta Segawa   文:世川祐多

私は2012年の秋に単身東京からパリへと渡った。東京やパリ生まれは別として、本物の江戸っ子や、巴里っ子が少ないように、普通、大都市には学業や仕事のため、単身者が集まってくる。

友人もいない街で、単身であるということは、孤独である。それを逃れるには人と会うしかない。夜遊びに繰り出すなり、自分の居場所を見つけるなり、人と触れ合おうとしていかなくては、人と出会う第一歩は生まれない。

江戸は、勤番侍や出稼ぎの農民などで溢れかえる、男過剰の独身男の街であった。今の東京も多くのシングルの男女が溢れかえる。パリもそう。半分は独身。これは昔も今も大都市の宿命と言える。

大都市では人とどうやって出会うのか? 〜ダイレクト編〜

大学。

博士課程では、そもそも博士課程の学生が数えるほどしかいないし、決められた授業もないから出会いは少ない。しかし、フランス人はほとんど修士課程に進んでから就職していくので、修士課程までは、学生仲間がたくさんいて、友情でも恋愛でも気の合う人との出会いがある。

こういうように博士課程でなければ、大都市でも学校が出会いの場になる。パーティーなんかに呼ばれれば、友達の友達へと出会いが広がる。

趣味。

スポーツやジャズといった音楽など、自分の趣味を通して、友達が増える。ホームパーティーなどに呼ばれて、さらに友達の輪が広がるというパターン。恋愛もあり。

職場。

職場の同僚と友達になるというのは、仕事は仕事だから難しいが、職場恋愛からの結婚というパターンは日本同様に多い。学生を終えれば出会いの場などそうそうないから当たり前。

といえども、ダイレクトな出会いで、気の合う仲間やドストライクな恋愛相手に出会うことは難しい。

大都市では人とどうやって出会うのか? 〜インダイレクト編〜

これは、主だって恋愛相手を求める人間が使うが、現代においては多種多様な出会い系サイトが溢れている。

セフレ募集。不倫相手募集。真面目な出会い。ホモセクシャルの出会い。アジア人専門・アラブ人専門・黒人専門・エリート限定など的を絞って対象を選別する出会い。

様々なサイトやコマーシャルがテレビでもメトロの広告でも溢れている。

さあ、しかし、ネットという気軽な媒体での出会いがここまで進化したのに、パリっ子の半数は未だ独身。これはどういうことか。

本当の友達、この人だという恋愛相手に出会う難しさ

みんながみんなそうではないが、普通、学士修士の大学生は、思春期から大人になり、酒を覚え大都会の夜遊びを覚えたてだから、にこやかに生活を謳歌し、友達も増えるわ、恋愛も順調。

問題は彼ら以外の大人たちの出会いである。

博士課程になると、人がいなくなり、研究仲間は会社の同僚のようなもので、通常友達という訳でもないし、内向的な人も多いから、それまでの学生生活とは違ったハリのないものになる。数人の仲間の中で、こいつ面白いな、この人いいな、というものは普通ない。研究者なんてそんなもの。

また、大都市に色濃くなる問題として、いつも人口過多の街で息苦しく、日々の生活に追われ、満員電車に乗り、狭い家に暮らし、疲れ果てるというストレスがある。

さらに、太陽不足を補うビタミン剤を飲まなくてはならないほど、秋冬春先に太陽のないパリの人間なんて、みんなイライラして、疲れて、日本同様鬱や自殺のオンパレード。そういうストレスを溜め曇った表情の気質の人に、いい出会いは訪れない。

人間は通常心身ともに健康で英気が満ち溢れ、自然とにこやかにいる時にこそ、様々の楽しい出会いの連鎖が起こっていく。

でもパリにはパーティーが多い。それは、少しでも誰かと出会いたいという人間の本能だろう。

しかし、パリのパーティーは、疲れ切った大人たちの酒肴を介した表面的なご挨拶パーティーになることが多い。「あなたはどなたのお友達で?」「何をされて?」「ご出身は?」「左様ですか、興味深うございまして。」という口上の連続。

僕はといえば、薄っぺらいことが嫌いだから、嗅覚を働かせて面白そうな人を探す。いちいち全員に表面的な挨拶を交わしても疲れるだけだし、満遍なくは無理。来られたら別として、こちらからは面白そうな数人、あるいは目があった女に絞る。心身ともに不健康そうな人は見りゃわかるし、目が淀んでいるから、できるだけ生き生きした目の人に近づく。

パリにはオンラインの出会いサイトが溢れているが、やっている人に聞くと、中には運命の相手を見つけたという人もいない訳ではないが、ほとんど戦果がイマイチだという。

「会ってはみたけれど。」「少々お付き合いしたけれど、やっぱり違った。」「体目当てのクソ野郎だった。」などという声を多く聞く。

フランス人は本来保守的だから、新しいものがアメリカのようにはすぐには発展しないのかもしれない。そして、相手をまずはよく見るし、警戒心も強く、同様に、ロマンチストでもあるから、やはりダイレクトな出会いを心の底では欲している。

すると、この花の都の人の渦、忙しない時の流れに比例する表面的な出会いの連続の中で、気の知れた友達の新規開拓、心底惚れて付き合いたい恋愛相手に出会うことは、一層むずかしくなるのである。

ロマンティックのかけらもないオンラインの軽さと、出会いたいのに出会えない、けどダイレクトに出会いたいという絶妙のラインを行くために、東京で流行っているとかいう相席居酒屋とか、街コンとか、そういうのがフランス人には合っているのではと思うのである。

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司さんの文を読んで、もちろんダイレクトな出会いにこだわる人もいるでしょうが、アメリカは合理的ならどんどん機械的なものの恩恵を躊躇なく受け入れて行くのだろうなという雰囲気が感じられました。

メリケンさんたちならいつの日か、ネットの出会いの時代も終わり、ポストモダンが来たら、出会うこともやめ、全て遠隔の人工授精で子孫を残すんじゃないかとか妄想してしまいます。ダイレクトな快楽は脳内のICチップがしてくれるからもう良いと。

他方、ネットの活用やネット上での出会いが隆盛なアメリカの、こういう合理化をどんどんやってしまう精神性が、アメリカのダイナミズムを生むのではなかろうかと。

アメリカという国にも住んでみたいなとも思う。けれど、英語を極めるなら、ロンドンだよなとも思うし。悩ましい。

恋愛はオンラインがスタンダードに。あなたの運命の相手は何ヘイター?

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

2008年9月4日に私はスーツケース一つを持って、演劇学校に通うために渡米しました。ニューヨークのJFK空港に降り立った私のスーツケースの中には学生時代に2万円払って購入した電子辞書が入っていました。子どもの時から英語を使う環境で育ったため英語には自信があったものの、いざアメリカ生活を始めたらきっと知らない単語がたくさんあるに違いない。学校や役所でパッと調べられたら便利なはず。そう思って持ってきた電子辞書でしたが、予想通りあらゆる場面で大活躍でした。

 「昔は紙の辞書しかなくて大変だった」

ニューヨークで知り合った日本人の方々が「私が渡米してきた時は紙の辞書しか無かったから、いちいち辞書を引くのも大変だった」と言っていたのをよく覚えています。若い読者さんのために説明しておくと、私は1984年生まれで当時は24歳。「紙の辞書しかなくて大変だった」と言っていた人だって私よりも8歳年上なくらいでした。

 そんな中、先日購入した日本行きの航空券。特に選んだわけではなかったのですが、9月5日の便です。午前1時の便なので9月4日のようなものです。ちょうど10年たって太平洋を逆方向に渡る私のスーツケースにはもちろん、電子辞書は入っていません。英語が上達したからではなく、スマホで何でも調べられるようになったからです。

 スマホで英単語を調べている留学生を見たら、「私が渡米した時は電子辞書しか無かったから大変だった」と私だって苦労自慢できる時代になったわけですね。「テクノロジーの発展」という言い回しは何十年も使われてきましたが、考えてみると私達が一つのテクノロジーについて語る時間は非常に短いものです。

 There’s an app for that(それやってくれるアプリあるよ)」

 テクノロジーの盛衰と共に、言葉もまたその形を変えていきます。「辞書を引く」という表現が日常会話から消えてしまったのと同じように、8年後には「ググる」なんて言葉は誰も使わなくなっているかもしれません。

 私が渡米してからの3年ほど、ひたすら耳にした表現が「There’s an app for that.(それやってくれるアプリあるよ)」でした。iPhoneが爆発的に人気になり、成功したアプリ会社がいきなり何十億、何百億円もベンチャーキャピタルからお金を集めた、なんて話が新聞を賑わせ始めた時代です。「部屋探し?There’s an app for that.」「地下鉄の時間しらべる?There’s an app for that.」「タクシーつかまえる?There’s an app for that.」といった具合です。それまでの日常生活のちょっとした作業をアプリで簡略化する、ということが爆発的にテストされた時期でした。

 There’s an app for that.」というフレーズは全国的なトレンドとなり、セサミストリートもそれをモチーフにしたエピソードを作っています。

面白いのは、アプリ自体がさらに一般化したことで、今となってはこのフレーズを聞かなくなったことです。アプリという存在が新しかったからこそ、人々が「まだ国際電話なんてかけてるの?There’s an app for that.」と日常生活にアプリを導入するという作業を細かくする必要があったわけです。今ではアプリはしっかりと定着し、通信、エンタメ、交通、旅行、とそれぞれのカテゴリーで高いシェアを誇るアプリが確立しています。「それ、アプリでできるよ」と紹介する必要が無くなったわけですね。

 オンラインデートが変える、人類史

 アプリが代替したものはたくさん存在しています。そんな中でも特に、人間の歴史に残る大きなインパクトだ、と私が個人的に思っているのが「恋愛相手との出会い」、すなわちデート・アプリです。性格や趣味に関する質問にいくつも答えて、アルゴリズムが相性が良い可能性の高いデート相手を提案してくれるようなものから、ただ画像だけを右と左にスワイプしていくものまで、様々な人気アプリが世に出ています。アジア人向け、ユダヤ人向け、と対象ユーザーを絞ったものもあれば、「真剣な交際を考えている人だけ(カジュアルなセックス目的じゃない)」と目的を絞ったものもあります。

 基本的なシステムはどれも同じです。アプリ上で画像とプロフィールを見て、お互いに気に入ればマッチ成立。メッセージを交換します。チャットを通して会いたいと思えばデート。という流れです。1日に大量のユーザーのプロフィールと画像をチェックして、効率的に自分に興味を持ってくれる人を探すことができます。一般人の恋愛相手探しが、突然に指数関数的に効率的になったわけです。これが社会に影響を与えないわけがありません。

 (ウェブ・アプリによる)オンライン・デートが社会に与える影響に関する研究はまだ新しいものですが、すでにアメリカでは異性愛者間では「友人を通じて会う」に次いで二番目に多い出会い方となっており、同性愛者間では群を抜いて一番多い出会い方となっています。アメリカでは現在、結婚するカップルの1/3はオンラインで出会ったとされています。また従来のデート候補との出会い方とは違って、オンライン・デートでは相手は共通の友人などもいない、全くの他人であることが多く、交流が全くない社会的なグループを結びつけるという効果を生んでいるようです。異なる人種間の結婚も増えることが予想され、さらにはオンラインデートが存在している社会における結婚の方が強固であるというモデル・シミュレーションも出ています。オンライン経由での出会いから成立したカップルの結婚が一般化すればオンライン・デートに関するイメージも良くなり、さらに利用者は増えるでしょう。なにせほとんどのサービスが無料、かつ誰しもがスマホを持っている時代です。何回かクリックするだけで、もしかしたら運命の相手と出会えるかもしれない

 どうでしょう。「私の時は、リアルで出会わないと恋愛できなかった」と苦労自慢する時代がすぐ近くまでやってきているように思います。

「オレの彼女、アンチ巨人ファンなんだ」

いろんなコンセプトの物が作られてきたデート・アプリですが、個人的に面白いなと思ったのは元ゴールドマン・サックスの従業員によるアプリ「Haterです。Haterとは「嫌う人」の意味。ただ文句ばかり言うような人をまとめて「Hater」と表現することもあれば、特定の物を嫌っている人を◯◯Haterと表現することもあります。

このデート・アプリ、好きな物が同じ人をマッチングするのではなく、嫌いな物が同じ人をマッチングするというコンセプトです。どうですか。確かに好きな物よりも嫌いな物の方が相性を測る上では正確な気がしないでもないですよね。趣味が一緒じゃなくてもいい、お酒やコーヒーが好きじゃなくてもいい、好きな映画が同じじゃなくてもいい、「巨人ファン/阪神ファンが大嫌い」という一点で同意できたら相性が良いことが分かる!という感覚でしょうか。

日本でも人気のテイラー・スウィフトの「Shake It Off」という歌では「And the Haters gonna hate, hate, hate, hate, hate(嫌う人は何やっても嫌ってくる)」と歌詞にHaterが使われています。皮肉にもアプリ「Hater」を紹介する記事では共通の「Hate」ポイントの例としてテイラー・スウィフトが使われていますが

しかし新しいデートアプリが次から次に出てくるということは、恋愛相手を上手く見つけている人もいる一方で、新しいアプリを必要としている人もいるわけです。「ニューヨークで恋愛するのは難しい」とは良く言われます。理由は人によって違うでしょうが、多くの人が同意するのは「Everybody is looking for the next best thing.」というもの。The next best thingは「次のベストな物」。つまりちょっと相性が良い人が見つかっても「もっと良い相手」が見つかったらそっちに移りたい、と皆が思っているということです。ニューヨークという上昇志向な街に集まる高スペックな人々によるデート市場ではこの気質も強そうです。相手に自分こそが「the best thing in townfor me)」だと思ってもらわないといけない。アプリによってデート・システムがさらに効率化することで競争は一層熾烈になっているのでしょう。

 #私の運命の相手はこれが嫌いなはず

 もしも「自分の運命の相手が嫌いだったらいいなと思う物をリストアップしなさい」と言われたら、皆さんは何を挙げますか?#私の運命の相手はこれが嫌いなはずハッシュタグを使ってツイッターやFacebookで教えてください。

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 と、本文はここまでです。ちなみにマスヤマさんの前回のエントリーの冒頭では「死ぬまでに、一度(あるいはもう一度)行ってみたい場所は、どこですか?」という質問が投げかけられていました。なかなか答えるのが難しい質問ですね。私にとっては「死ぬまでに、おそらく一度も行かない場所」という質問に答える方がずっと簡単です。

 私はゲイなので、ゲイであること自体が違法であり死刑にもなりうるサウジアラビアやイランに行くことはまず無いように思います。死刑にならなくともホモフォビアが強いとされているロシアやアフリカの国には進んで行くことは無いように思います。人生は短いので、限られた時間を使って旅行に行くのであれば、マスヤマさんが挙げていたような「LGBTにフレンドリーな場所」の中から自分が興味のある場所をピックアップして訪れると思います。パートナーのことを友人、と嘘をついて紹介しないといけない。手をつないでいたら後ろから殴られて殺されるかもしれない。なぜわざわざそんな恐怖を克服してまで旅行しないといけないんだと、つらつらと書いてみるとなぜデートアプリ「Hater」が開発されたかがピンときます。

 好きなものが好きな理由を説明するのは難しいですが、何かに対して自分が強固に「NO!」と言える時、それを説明するのは実に簡単です。自分が絶対にNO!と言うものを説明して恋愛相手を探すというのは、実はかなり奥深いものがあるのかもしれません。それがアンチ巨人であれ、アンチ阪神であれ。