訛り

Text by Tsukasa Kondo    文:近藤 司

パートナーの仕事の都合で、この10月からカナダはトロントで生活しています。カナダのニュースを聴いているとよく耳に入ってくるのが「国境の南では(south of the border)」という表現です。これはもちろんアメリカのことを指しているのですが、ニューヨークに住んでいた時にはほぼ全く聴くことの無い表現でした。もちろん、アメリカでも南カリフォルニアやテキサスまで行けば「国境の南」という表現が乾いた風に乗って聴こえてくるのでしょう。その場合はもちろん、メキシコを指すわけです。

トロントはまさに国境に面した大都市で、目の前に広がる湖の向こう側はすぐにアメリカです。ナイアガラの方に行くと短い橋でいくつもアメリカとカナダがつながっています。先日、アメリカから送ってきた家具を国境で受け取りに出向いた時には気をつけて運転していたつもりでもうっかり、間違って国境を越えてしまうというトラブルに合いました。それも二度も。二度目は国境の検査官にこっぴどく怒られてしまいました。国境を越えるつもりがなかったのでパートナーはビザを携帯していなかったのです。

「オマカセ・フォー・キッズ」の日本語字幕をつけていると、頻繁に「国境のこちら側/あちら側」というコンセプトについて考えます。マスヤマ氏がこちらのエントリーで紹介していますが、「オマカセ・フォー・キッズ」は本格的な日本食を食べたことが無い海外の子どもたちに、和食のフルコースを振る舞い、彼らの正直なリアクションを撮影するというドキュメンタリー(未公開)です。

日本で生まれ育った我々からすると思い描くだけで胸がほっこりと温かくなるような、味噌汁や茶碗蒸しといった料理も、ニューヨーク、スペイン、フランスの子どもたちは「まずい!」と一蹴してしまうこともあるわけです。

料理や音楽など「国境を越える」と言われているものはたくさんありますが、それでもそれぞれの個人の体験や人生から独立して料理や音楽の良さが存在しているわけではないのだな、と思わされます。

アメリカからカナダに渡ってきた私からすると、カナダ訛りはやはり印象に残ります。寒い地方の訛りらしく、口をあまり開かずにモゴモゴと話す様子は「うーんいかにも訛りっぽいな」と思ってしまいそうになりますが、カナダ人からするとアメリカ英語の方が大げさな訛りに聴こえるわけですね。仕事でSarahという名前の女性に会ったのですが、私が彼女の名前を呼ぶと「私がニューヨーカーだったらそんな名前だったかもね」と言われてしまいました。料理も同じなのかもしれません。私なら全て「美味しい美味しい」とたいらげてしまうだろう和食のフルコースを、子どもたちが「これは食べられる」「これは美味しくない」と評価していく様子はなかなか見ていて解放的です。

と同時に、「お前たちも大人になったら大金を払って和食のフルコースを食べたくなるのだぞ、ウヒヒヒ」と意地汚い気持ちにもなります。子どもから大人になるにつれて味覚が変化する科学的な仕組みは私もよく分かりませんが、参加した子どもたちが数年後に自分の出演しているビデオを見た時にどう思うかは非常に興味があります。寿司に手すら付けない様子に憤りを覚えるのでは…というのは日本人の大人である私の希望的な(そして性格の悪い)予想です。

しかし食に限らず、自分が嫌いだったもの、無関心だったものが好きになる瞬間というのがあります。クラシック音楽に興味がなかった人が、一曲だけ好きな曲を見つける、そこから少しずつ自分が好きだと思う作曲家を見つけ始める。日本食は嫌いだと思っていたイタリア人がイタリア料理と似た和食メニューをきっかけに日本食の中でも好きなものを見つけ始める。こういった変化こそが人生を豊かにしていくのだと思うのですが、なかなか日常でこれを見つけることは難しい。「ほらこういう具合に比べてみると、こっちの方が良いでしょう」と自分の中に存在していたセンスを掘り出して見つけてくれるような人生の先生を見つけたら、その先生は離さない方が良いでしょう。

自分の周りの中に思わず見つけた興味の対象を、追求し始めて気付いてみたら国境の逆側に来ていた。ああ、そういえば昔の自分はこちら側の言葉を「訛り」だなんて呼んでいたな、と驚いてしまう。そんな事が、たくさん皆さんにも起きますように!

====

本文はここまでですが、埋め込んだビデオはイタリア人作曲家であるAdriano Celentanoが1972年に発表したもの。アメリカのロック音楽がイタリア人である彼の耳にどう聴こえるかを模したものです。そうです、ここで歌われている言葉は全くのでっち上げ。「アメリカ人の歌っぽいもの」を作っているんですね。確かにボブ・ディランを思わせる歌い節です。

これを見ていると3歳の甥っ子が大人の話し方を真似ている様子を思い出します。「ごにょごのみゃみゃでしょー!」「だだだねらねらなのー!」とメロディと語尾(「でしょ!」や「なのー!」)だけを真似て意味の無いでっちあげ言語をずっと話しているのです。しかしいずれ彼ももっと多くの言葉を理解し話すようになると、このでっちあげ言語側の住人になるのです。そうか子どもは常にたくさんの“国境”を越えているのだな、と思う次第です。